歴史
寺宝
阿弥陀如来像(阿弥陀来迎図)
浄土真宗の本尊である阿弥陀如来の絵像。(室町時代)
宗祖親鸞聖人は当時、流行していた「臨終来迎(臨終の際に仏の来迎を期待する)」ではなく、「平成業成(平素の生活において他力の信心を獲得したその時に往生の業因が定まるとする)」を説いた。初期においては、「南無阿弥陀仏」の六字名号が本尊として礼拝されたが、教団が発展するにつれ、六字の名号に光明を描き加えた「光明本尊」、さらには仏体そのものが光明を放つ「阿弥陀如来絵像」も制作されるようになった。
この乗誓寺・阿弥陀如来絵像は十九条の光明が描かれ、来迎図の影響から飛雲の上に阿弥陀仏が描かれている。時代が進むにつれて飛雲は蓮の台となり、光明の条数は阿弥陀仏の四十八願から四十八条へと変化することとなった。この絵像は教団の本尊変遷の過渡期における形態と評されている。
東京国立博物館
西本願寺展 〜御影堂平成大修復事業記念〜
2003年3月25日〜5月5日 出典
龍谷ミュージアム
龍谷ミュージアム開館記念および親鸞聖人750回の大遠忌法要記念展
2011年4月5日〜5月22日(出品番号79)
蓮悟書状
本願寺第8代宗主・蓮如上人の第7男である蓮悟(1468~1543年)の書状。(室町時代)
永正3年(1506年)3月、長尾と能登・畠山勢の攻撃に備えて、蓮悟が門徒に対して送った書状である。本願寺門徒は、加賀の一向一揆(1488年)より約1世紀にわたり加賀一国を支配するが、蓮悟も金沢・本泉寺に配され権勢を誇った。書状には、戦国大名との抗争に際し、「我人年来の雨山之御恩徳かうふり候報謝のために、こゝにて捨身命をも可有馳走候事は、非本望候哉、、此時志之面々者、雖為何時同心候者、誠二難有候へく候、穴賢ゝ」(『加能資料』戦国Ⅴ 加能資料編纂委員会P290)と門徒衆に団結を促している。また、蓮悟は『蓮如上人御一代記聞書』等の筆者としての一面もある。
歴代の言い伝えによると、乗誓寺は本願寺東西分裂以前、後に東本願寺に属する北陸寺院との結びつきが強く、そのためにこの書状が伝えられているとされている。
聖徳太子勝鬘経講讃像・和朝高僧先徳連坐像
下部に太子経講讃像を表し、真宗系の遺品に通有の小野妹子、蘇我馬子、日羅、恵慈、阿佐太子、学哥の六随臣を配している。上部には源信、法然以下8名の先徳を描くが親鸞より上方の3名は像主を確定しえない。
本図は通常の垂華髪童形太子を勝鬘経講讃太子に置き換えた特殊な和朝太子先徳連坐像である。(南北朝時代)
龍谷ミュージアム
龍谷ミュージアム開館記念および親鸞聖人750回大遠忌法要記念展
2012年2月4日〜3月25日(第6期 出品 出品番号95)
龍谷ミュージアム
親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年記念「真宗と聖徳太子」
2023年4月1日〜5月28日(出品番号22)
仏説阿弥陀経掛軸
嘉永6年(1853年)、米使ペリーが艦隊を率いて浦賀に来航した際、江戸の町では狂歌や風刺を交えてその状況が伝えられたが、当地浦賀の人々はその脅威に恐れおののき、山中に避難するほどであったという。
浦賀周辺寺院の梵鐘は大砲に見立てて黒船に向けられ、町には幕府の命令で各地より藩士が招集され、厳戒態勢が敷かれた。当時、町民の不安を取り除き、その安穏を願うための法要が行われたが、その際にこの「仏説阿弥陀経」の掛軸が使用された。(江戸時代)
本尊阿弥陀如来像
掛軸展示