歴史

開基は曽我兄弟の子

開基は曽我兄弟の子

 乗誓寺の開基である了源(平塚入道了源)は、藤原鎌足を祖として十八代を数える末裔であり、伊豆の曽我十郎祐成を父に、大磯の虎御前を母に持ち、出家前の名を河津三郎信之と称したと伝えられる。

 曽我十郎、虎御前とも、江戸期より今日まで歌舞伎や謡曲、浄瑠璃、浮世絵などでは『曽我物語』として広く民衆に親しまれ、仇討物語の代表的な演目として有名である。

 河津三郎信之(出家前の了源)は、父と同じく武士として源実朝に仕え、多くの武功を残した。その恩賞として平塚の地を賜るが、同族の宿縁と積年の仇敵に感じるところがあり、求道の日々を過ごすこととなる。

 時を同じくして、親鸞聖人は関東教化のために各地を歩かれていた。法縁は熟し、聖人の念仏の教えを受けた阿津三郎信之は出家を決意する。名を了源と改め、安貞元年(1227年)平塚の地に一宇を建立し、親鸞聖人直筆の十字尊号を本尊として迎え、阿弥陀寺を開いた。

平塚から浦賀の地へ

浦賀の地へ

 歴代相続後の文明年間、都では応仁の乱(1467年)が起こり、各地では一揆が勃発する不安定な情勢の中、比叡山の僧兵により京都本願寺が破却された。

 その余波は関東にもいたり、当時、討伐の風説が流れるほどであった。それを知った当時の住職であり碩学の誉れ高き僧であった空浄は、文明元年(1469年)、平塚を逃れ、東海道から離れた現在の東浦賀に一宇を建て、阿弥陀寺の本尊を移し歴代の法灯を護った。『新編相模風土記稿』は、寺基を移してからの様子を「星霜を歴て堂宇発頽せんとす」と記している。本堂が崩れ落ちそうになるほどに厳しい時代を経て、元和元年(1615年)、空覚の代に再興を果たしている。

 さらに、寛永十四年(1637年)には、本願寺第十三代良如宗主の御巡教の時に阿弥陀寺を改め、現在の寺号である東教山乗誓寺を賜り、江戸期の浦賀の繁栄とともに多方面にわたり更なる発展を遂げるのである。

寺宝